2008年03月25日
オールナイトニッポン
「コロンブスの卵」以来、メインシステムのほうもAMチューナーを通してトランスミッタ直結サウンドを楽しんでいる。
ブルースや古いジャズは、AM変調された音のほうが心地よいというのは言い過ぎだろうか???
なぜ僕がAMラヂオの音が好きなのか、これはたぶん理由がある。
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僕は中学生から高校生のころ、ラジオにはまっていた。
作る方ではなく、聴く方である。
情報の少ない田舎町で、インターネットもない当時、自分の部屋が世界とつながる唯一の手段がラジオであった。
富山県は電波状況が案外良いようで、深夜には東京のニッポン放送や文化、TBS、さらにラジオ大阪や福岡のKBCも聴けたし、アジア圏の放送もいろいろ受信できた。(ラジオは安物のラジカセである。)

さてラジオといえばオールナイトニッポンである。
(右はテーマ曲のビター・スイート・サンバの収録アルバム。 ...パラッパ♪パッパラパ♪パッパラッ♪)
中でも月曜の中島みゆきには心底惚れ込み、僕の人生観を変えたといっても大げさではない。 人間って、人生って素晴らしいと...
「握手券」が欲しくて数回ハガキを出したがついに読まれることはなく、終了時の哀しみを読売新聞の「放送塔」に投書したら掲載されたっけ...
他にはサンプラザ中野、ビートたけし、とんねるず、サザン、小泉今日子、寺田恵子、デーモン小暮...意外なところでは辻仁成、伊集院光、小峰隆生、鴻上庄司など。
ローカル局終了後の3時からはパーソナリティがややマイナーになるが、大好きな谷山浩子は毎週聴いた。 終了は朝5時である
糸井五郎などアナウンサーによる初期の放送は知らない。 様々なタレントを起用した、ラジオ最後の盛期だったのかもしれない。
今では信じられない話だが、学校でも共通の話題として立派に成立していたのである。
ニッポン放送が聞き取りにくいときは長距離ドライバー向けの「歌うヘッドライト」を聴いたりもした。ほとんど演歌なのだが、これはこれで知らない世界を見ることができた...
他にもマニアックな番組が多々あった。かなりヤバイ内容のものも...
ニッポン放送の隣バンド1251kHzにはモスクワ放送(日本語)があり、この電波は強烈だった。放送内容はつまらないが、ロシア文学を好きになったのもこの影響だ。
TBSの「ラジオはアメリカン」=略してラジアメ も好きだったな...
ローカルCMも楽しみだった。 富山にはなかった「吉野屋」や「セブンイレブン」はラジオCMの中にだけ存在した。
ラジオは生き物で、生身の人間がぶつかりあう場でもあった。 インターネットは無限に混沌と広がる世界だが、ラジオは必ず最後に「人間」に行き当たって跳ね返ってくるいう感覚がある。
パーソナリティもTVとはまったく違う素顔を見せてくれた。
リスナーはペンネームではあっても、互いを中傷するようなことはなかった。笑いあり、涙あり、リスナーとパーソナリティが電波で直結され、リスナー同士も不思議な連帯感でつながっていたように思う。 おなじみの常連さんはみんなが知っていたし、互いに励まし合ったりもしていた。
聴いていた人にしかわからないかもしれないが、ラジオには愛があったのだ。
1990年代以降、若者のラジオ離れが進んだという。
TVは各部屋に行き渡り、インターネットが出現し、携帯が主役になった。 天から降り注ぐ電波ではなく、各々に好きな物だけを抽出、検索して楽しむ時代になった。
いつの間にか、僕もほとんどラジオを聴かなくなった。
しかし、いまこうして音楽を無理矢理ラジオ化して聴いているのは、AMの音が体に染みついているからなのだろう。 (ついでに夜型生活も染みついている)
軽いハムの向こうからやってくる暖かい声に心癒された、最後の世代なのかもしれない。
ブルースや古いジャズは、AM変調された音のほうが心地よいというのは言い過ぎだろうか???
なぜ僕がAMラヂオの音が好きなのか、これはたぶん理由がある。
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僕は中学生から高校生のころ、ラジオにはまっていた。
作る方ではなく、聴く方である。
情報の少ない田舎町で、インターネットもない当時、自分の部屋が世界とつながる唯一の手段がラジオであった。
富山県は電波状況が案外良いようで、深夜には東京のニッポン放送や文化、TBS、さらにラジオ大阪や福岡のKBCも聴けたし、アジア圏の放送もいろいろ受信できた。(ラジオは安物のラジカセである。)

さてラジオといえばオールナイトニッポンである。
(右はテーマ曲のビター・スイート・サンバの収録アルバム。 ...パラッパ♪パッパラパ♪パッパラッ♪)
中でも月曜の中島みゆきには心底惚れ込み、僕の人生観を変えたといっても大げさではない。 人間って、人生って素晴らしいと...
「握手券」が欲しくて数回ハガキを出したがついに読まれることはなく、終了時の哀しみを読売新聞の「放送塔」に投書したら掲載されたっけ...
他にはサンプラザ中野、ビートたけし、とんねるず、サザン、小泉今日子、寺田恵子、デーモン小暮...意外なところでは辻仁成、伊集院光、小峰隆生、鴻上庄司など。
ローカル局終了後の3時からはパーソナリティがややマイナーになるが、大好きな谷山浩子は毎週聴いた。 終了は朝5時である

糸井五郎などアナウンサーによる初期の放送は知らない。 様々なタレントを起用した、ラジオ最後の盛期だったのかもしれない。
今では信じられない話だが、学校でも共通の話題として立派に成立していたのである。
ニッポン放送が聞き取りにくいときは長距離ドライバー向けの「歌うヘッドライト」を聴いたりもした。ほとんど演歌なのだが、これはこれで知らない世界を見ることができた...
他にもマニアックな番組が多々あった。かなりヤバイ内容のものも...
ニッポン放送の隣バンド1251kHzにはモスクワ放送(日本語)があり、この電波は強烈だった。放送内容はつまらないが、ロシア文学を好きになったのもこの影響だ。
TBSの「ラジオはアメリカン」=略してラジアメ も好きだったな...
ローカルCMも楽しみだった。 富山にはなかった「吉野屋」や「セブンイレブン」はラジオCMの中にだけ存在した。
ラジオは生き物で、生身の人間がぶつかりあう場でもあった。 インターネットは無限に混沌と広がる世界だが、ラジオは必ず最後に「人間」に行き当たって跳ね返ってくるいう感覚がある。
パーソナリティもTVとはまったく違う素顔を見せてくれた。
リスナーはペンネームではあっても、互いを中傷するようなことはなかった。笑いあり、涙あり、リスナーとパーソナリティが電波で直結され、リスナー同士も不思議な連帯感でつながっていたように思う。 おなじみの常連さんはみんなが知っていたし、互いに励まし合ったりもしていた。
聴いていた人にしかわからないかもしれないが、ラジオには愛があったのだ。
1990年代以降、若者のラジオ離れが進んだという。
TVは各部屋に行き渡り、インターネットが出現し、携帯が主役になった。 天から降り注ぐ電波ではなく、各々に好きな物だけを抽出、検索して楽しむ時代になった。
いつの間にか、僕もほとんどラジオを聴かなくなった。
しかし、いまこうして音楽を無理矢理ラジオ化して聴いているのは、AMの音が体に染みついているからなのだろう。 (ついでに夜型生活も染みついている)
軽いハムの向こうからやってくる暖かい声に心癒された、最後の世代なのかもしれない。












































