2010年04月06日
カザルスホール閉館で思い出すバブル
お茶の水スクエア (設計:磯崎新 1987年完成)には特別な思い出がある。
学校から近かったので、授業の合間に何10回通っただろう? 2,000円くらいで優れた若手音楽家のリサイタルが聴けた。
僕の知る限り、音も雰囲気も東京で一番のホールだった。 ロビーへのアプローチからして、日本の公共建築とは違っていた。
建築を志す以前のことだから、これは純粋に利用者としての印象。
ステージ横のバルコニー席から見下ろし、沸き上がるような残響に、気分はもうヨーロッパだった。
大好きなフランスバロック楽団、レ・ザール・フロリサン日本公演には4日連続で通い、数万円が飛んだ...
近くにはLEMON画翠という画材店があり、ここが主催する卒業制作展で大学代表になってプレゼンしたのもスクエアホールだった。
大学提出時の不足部分をカバーすべく徹夜で設営作業したのが良い思い出。 親きょうだいも見に来てくれた。
1988年に上京したとき、世間はバブルまっしぐら。
朝から夕方まで授業、夕方から塾講師をして夜はバーテンダー。
サントリーホールから六本木ピットインにハシゴして朝まで飲む。 常に鞄に「ぴあ」を入れていた毎日。
工事現場で徹夜で肉体労働すれば一晩で2、3万円になった。 授業の合間に秋葉原をうろつく。 長期休暇には旅に出て2ヶ月くらい帰ってこない。
まわりもみんな浮かれていた。 毎日のように出来上がるプレイスポット、若くして起業する友人、土地を売ったわ買ったわ、湾岸クルージング、海外旅行、どう考えても分不相応な振る舞いが当たり前に行われた。
92年に就職したとき、バブルは消し飛んでいた。 プロジェクトに群がる怪しげな残党はまだいたけれど...
当時富山にいた人に聞くと、バブルの実感は薄いという。 東京独特の空気だったのだろうか?
あの時代にしかつくることができなかった建築、都市があると思う。
90年代後半以降の商業建築はどれも同じ顔をしている。
大規模開発では、恵比寿も六本木も青山も代官山もお台場も汐留も大差ない。 経済がそのまま形になっているからだ。
表参道や銀座のブランドショップは、表層的なファサードの差異を競い合っている。
日本的な小さな地割の中に欧州の芳醇な都市スケールを縮小して埋め込もうという試みは、ほとんど見られなくなってしまった。
バブルとは経済至上主義ではなく、むしろ経済を無視した時代。 ヒルサイドテラスやコレッツィオーネやテラッツァやデザインセンターのような建築は、もう生まれないだろう。
自分が建築を志したのも、現代建築博物館と化していたバブル街の影響は無視できない。
有り余る(と思われた)お金によって、世界中から文化や芸術や人材が流れ込んだ。
それらはすぐに去っていったが、一瞬でも目の当たりにしたことは大きかったはず。
多くの過ちも犯したバブル期に、日本は先進国の仲間入りをしたのではないかと僕は思っている。
学校から近かったので、授業の合間に何10回通っただろう? 2,000円くらいで優れた若手音楽家のリサイタルが聴けた。
僕の知る限り、音も雰囲気も東京で一番のホールだった。 ロビーへのアプローチからして、日本の公共建築とは違っていた。
建築を志す以前のことだから、これは純粋に利用者としての印象。
ステージ横のバルコニー席から見下ろし、沸き上がるような残響に、気分はもうヨーロッパだった。
大好きなフランスバロック楽団、レ・ザール・フロリサン日本公演には4日連続で通い、数万円が飛んだ...
近くにはLEMON画翠という画材店があり、ここが主催する卒業制作展で大学代表になってプレゼンしたのもスクエアホールだった。
大学提出時の不足部分をカバーすべく徹夜で設営作業したのが良い思い出。 親きょうだいも見に来てくれた。
1988年に上京したとき、世間はバブルまっしぐら。
朝から夕方まで授業、夕方から塾講師をして夜はバーテンダー。
サントリーホールから六本木ピットインにハシゴして朝まで飲む。 常に鞄に「ぴあ」を入れていた毎日。
工事現場で徹夜で肉体労働すれば一晩で2、3万円になった。 授業の合間に秋葉原をうろつく。 長期休暇には旅に出て2ヶ月くらい帰ってこない。
まわりもみんな浮かれていた。 毎日のように出来上がるプレイスポット、若くして起業する友人、土地を売ったわ買ったわ、湾岸クルージング、海外旅行、どう考えても分不相応な振る舞いが当たり前に行われた。
92年に就職したとき、バブルは消し飛んでいた。 プロジェクトに群がる怪しげな残党はまだいたけれど...
当時富山にいた人に聞くと、バブルの実感は薄いという。 東京独特の空気だったのだろうか?
あの時代にしかつくることができなかった建築、都市があると思う。
90年代後半以降の商業建築はどれも同じ顔をしている。
大規模開発では、恵比寿も六本木も青山も代官山もお台場も汐留も大差ない。 経済がそのまま形になっているからだ。
表参道や銀座のブランドショップは、表層的なファサードの差異を競い合っている。
日本的な小さな地割の中に欧州の芳醇な都市スケールを縮小して埋め込もうという試みは、ほとんど見られなくなってしまった。
バブルとは経済至上主義ではなく、むしろ経済を無視した時代。 ヒルサイドテラスやコレッツィオーネやテラッツァやデザインセンターのような建築は、もう生まれないだろう。
自分が建築を志したのも、現代建築博物館と化していたバブル街の影響は無視できない。
有り余る(と思われた)お金によって、世界中から文化や芸術や人材が流れ込んだ。
それらはすぐに去っていったが、一瞬でも目の当たりにしたことは大きかったはず。
多くの過ちも犯したバブル期に、日本は先進国の仲間入りをしたのではないかと僕は思っている。
コメント一覧
4. Posted by Roberto 2010年04月09日 00:50
全部とはいわないけれど、日本の居住環境もこの20年でかなり向上したと思います。
東京では家作りを建築家に頼むことがごく普通のことです。
誰でも、感性と標準的経済力を持てば、個性的で美しい住まいを得られること、これは世界的に見ても恵まれています。
きまじめな日本人の良さをもっと生かせばいいと思います。
東京では家作りを建築家に頼むことがごく普通のことです。
誰でも、感性と標準的経済力を持てば、個性的で美しい住まいを得られること、これは世界的に見ても恵まれています。
きまじめな日本人の良さをもっと生かせばいいと思います。
3. Posted by くらびぼー 2010年04月08日 23:17
綺麗に返してくれて有り難う。
”ミネルヴァのフクロウは黄昏を待って鳴く”と言う言葉が、日本にもあてはまるのだろうかね・・・。
そうなるために、日本人はもっと日々の生活とそのベースたる住宅を考えるべきだと思う。
客を呼べない、泊められない住居は、住宅ではなく”寮”でしかないと言う当たり前の現実に、都会の連中は何故気付かないのだろうか?
ここから先は長くなるので・・・、本編の何処かで考察してみてください。
”ミネルヴァのフクロウは黄昏を待って鳴く”と言う言葉が、日本にもあてはまるのだろうかね・・・。
そうなるために、日本人はもっと日々の生活とそのベースたる住宅を考えるべきだと思う。
客を呼べない、泊められない住居は、住宅ではなく”寮”でしかないと言う当たり前の現実に、都会の連中は何故気付かないのだろうか?
ここから先は長くなるので・・・、本編の何処かで考察してみてください。
2. Posted by Roberto 2010年04月08日 10:36
くらびぼーさん
「いまの日本が先進国だとしたら」
「そうなったのは70年代までの高度成長期ではなく、バブル以降だった」
そう書くべきだったかもしれません。
先進国の基準なんてどこにもありませんからね。
建築も含めて、芸術分野で世界レベルの人材が多く出てきたのはバブル以降だと思っています。
もちろん、バブルの狂乱がいろんな価値、特に日本の情緒や伝統をぶちこわしたのも事実だと思います。
ただ、功罪の「功」と捉えるべき点もあったと言いたいです。
>ラッキーだったんだから
微妙です...所詮は学生でしたから(^^;)
就職時にプロジェクトは激減し、給料もボーナスもどん底に落ちてました(T_T)
夜学の学費だけで精一杯、相当な苦学生だったのです。もちろんアパートは風呂無し!銭湯楽しかったなあ。
3~4年上の先輩とはかなり違うみたいです。
>そこでその果実を享受した人達は、今それを弁済する義務を負うと思うのだ。
ごもっとも!
僕も少なくとも4年分はすぐに返済しないと!
「いまの日本が先進国だとしたら」
「そうなったのは70年代までの高度成長期ではなく、バブル以降だった」
そう書くべきだったかもしれません。
先進国の基準なんてどこにもありませんからね。
建築も含めて、芸術分野で世界レベルの人材が多く出てきたのはバブル以降だと思っています。
もちろん、バブルの狂乱がいろんな価値、特に日本の情緒や伝統をぶちこわしたのも事実だと思います。
ただ、功罪の「功」と捉えるべき点もあったと言いたいです。
>ラッキーだったんだから
微妙です...所詮は学生でしたから(^^;)
就職時にプロジェクトは激減し、給料もボーナスもどん底に落ちてました(T_T)
夜学の学費だけで精一杯、相当な苦学生だったのです。もちろんアパートは風呂無し!銭湯楽しかったなあ。
3~4年上の先輩とはかなり違うみたいです。
>そこでその果実を享受した人達は、今それを弁済する義務を負うと思うのだ。
ごもっとも!
僕も少なくとも4年分はすぐに返済しないと!
1. Posted by くらびぼー 2010年04月07日 23:25
僕の大学時代の友人の1人が、卒業して就職してしばらくした頃から全く交渉が無くなり、仲間づての話では、もう我々とは会わないし、大学時代も忘れてしまいたいといってるらしい。在学中はずっと連んでいて、結婚式にはわざわざ車を仕立てて勤務地まで仲間6人で乗り込んでいったのに・・・、その振る舞いに我々は一様に当惑していた。今回のバブルの話を読んで、その理由に何となく合点がいった。元々東京育ちの彼には、名古屋は都落ち感があった上に、勤めてしばらくして、地元にいた同級生に聞かされた”百年に一度”の経験を、し損なった痛恨は、彼にとって消してしまいたい過去なのだろう。何せ東京では四畳半フォークは遠い昔で、ワンレン・ボデコンの姉ちゃんが扇子ふっていた頃に、名古屋では、三百円を握りしめて、フロに行こうか、ビールを買おうか、たばこを買おうかと思案していたのだから。神田川はまだ流れていた。同時期に福岡で学生やっていた嫁さんからも、お祭り騒ぎの話は聞いたこともない。バブルの存在は事実だしその影響も大きかったのだろうけれど、それはその時期にそこに居合わせた人々にとってのものであり、ましてやその洗礼が日本を先進国にしたと言う考え方には、とても違和感を感じる。確かに洗練されたものに触れる機会はあっただろうけれど、それを維持して発展してゆく力がないのだから、いつまで経っても先進的とは言えない。寧ろ、都会で外からの風に吹かれなくても、地方に脈々と受け継がれている優れた伝統は、国際的には明らかな先進性を持つ。ここで、敢えて僻みとのそしりを甘受して言えば、この長い長い日本の停滞の発端が、あのバカ騒ぎにあるのだとしたら、そこでその果実を享受した人達は、今それを弁済する義務を負うと思うのだ。今の日本にその自覚のある人が何人居るのだろう? 毎度、超辛・剛速球で御免ね。ラッキーだったんだから、いい家いっぱい建ててね。