2025年08月04日
テキ屋について考える

夏祭りの季節になると、毎年のように「テキ屋の闇」が話題になる。
当たりのないくじ、すぐ破れる金魚すくいの網、子どもを働かせる露店、そして保健所の許可すら怪しい食品の数々。
確かに税金も労基も衛生もルール違反ぎりぎり──いや、完全にアウトなことも多い。
だからといって、すべてをきっちりクリーンに!ホワイトに!あるいは排除すべき!なのだろうか?
この話題で私が考えこんでしまうのは、テキ屋という存在に、近世以前の門付け芸や香具師(やし)といった「周縁から生きた人々の文化」の面影を感じるからだ。
それは、被差別や漂泊といった境遇に根ざした、制度の外で生きる術だった。
現代に残る「歌舞伎」や「巫女」「大道芸」なども、かつては同じように周縁にいた人々の営みから生まれたが、時代とともに制度に組み込まれ、グレーな部分はきれいに拭われていった。
テキ屋は、まだその“拭われていない部分”をかろうじて残している、数少ない存在なのではないか。
それを祭りというハレの場でのみ、いまだにリアルに観察することができているのではないか。
もちろん、現代社会にふさわしい在り方は必要だ。 たとえば簡易な申告や衛生ガイドラインの導入、家族経営における少年労働の明確な基準など。
必要なのは一律の排除ではなく、テキ屋文化を“ゆるく制度化”して包摂する道ではないだろうか。そのために営業上の制約が増えて販売価格が上がるとしても、やむを得ないと思う。
すべてを白に塗り替えるのではなく、グレーを許す知恵こそが、文化を残す手段なのではないか。
マージナル(境界、周辺)にこそ文化が宿る。テキ屋は、その最後の一つかもしれないのだ。
制度の隙間でしか育たないものがある。管理されず、整えられず、だからこそ生き延びた習俗や工夫、したたかな人間の知恵。
それを「時代遅れ」と切り捨て、社会を「健全」にしていくことは簡単だが、私たちは果たして何と引き換えにそれをを得ようとしているのか。
テキ屋を通して立ち現れるのは、ただの夜店ではなく、「境界で生きる」ことそのものへの問いなのかもしれない。
そして気づけば私たちもまた、どこかの制度に包まれきれず、何かの境界に立ちながら、この社会を歩いているのではないかと思うのだ。












































